本日の改訂から

論語の本章は、「射不主皮」を前漢の『儀礼』が載せるほかは(郷射礼51)、先秦両漢の誰も引用していない。もっとも、「古之道也」は、各学派が自分の意見を正当化するために、多種多様に使っている。

湯又讓瞀光曰:「知者謀之,武者遂之,仁者居之,古之道也。吾子胡不立乎?」瞀光辭曰:「廢上,非義也;殺民,非仁也;人犯其難,我享其利,非廉也。吾聞之曰:『非其義者,不受其祿;無道之世,不踐其土。』況尊我乎!吾不忍久見也。」乃負石而自沈於廬水。

論語 荘子

(殷の湯王が夏の桀王を討とうとして家臣のベン隨、ボウ光に相談した。ところが二人とも「知りません」と言ったので、伊インを参謀にして桀王を討った。戦勝後、伊尹は宰相の地位を卞隨に譲り、卞隨はさらに瞀光に譲った。)

湯王「頭の良い者は計略を考え、腕の立つ者は悪を斬り、人の良い者はじっとしているのがいにしえの道だ。そなたほどの出来者が、何で仕事をしようとしないのだ?」

瞀光「お上を討つなどは正義に反します。いくさで民を殺すのは人の道ではありません。兵たちに死ぬ目に遭わせながら、自分はのうのうと王位に就いたのは、図々しい者のすることです。私はこう聞いております。”後ろ暗い話なら、報酬を受け取るな。ひどい世の中なら、そんな所から出て行け”と。それなのに殿は、私に宰相になれとは。とうてい耐えられません。おさらばでござる。」そう言って石を背負って川に身投げしてしまった。(『荘子』譲王15)

楊朱曰:「豐屋美服,厚味姣色,有此四者,何求於外?有此而求外者,无猒之性。无猒之性,陰陽之蠹也。忠不足以安君,適足以危身;義不足以利物,適足以害生。安上不由於忠,而忠名滅焉;利物不由於義,而義名絕焉。君臣皆安,物我兼利,古之道也

楊朱
楊朱「造りのよい住まいに縫いのよい衣服、美味しい料理に美しい異性、この四つのほかに、何が人に必要だろうか? それ以外を欲しがる奴は、貪欲の病気にとりつかれているのだ。子の病は、陰陽の巡りにひそむ毒虫だ。忠義を尽くしても主君が不安がる。それでは首をちょん切られる。正義を貫いても全然儲からない。自分の生涯が台無しになる。主君が安心するのは家臣の忠義にではない。だから忠義を言い立てる者は滅ぶ。儲かるのは正義に依らない。だから正義を言い立てる者は滅ぶ。(そういううそデタラメが世に絶えて、)主君も家臣も信頼し合い、まわりも自分も儲かるのが、いにしえの道だ。(『列子』楊朱17)

古者先王盡力於親民,加事於明法。彼法明則忠臣勸,罰必則邪臣止。忠勸邪止而地廣主尊者,秦是也。群臣朋黨比周以隱正道、行私曲而地削主卑者,山東是也。亂弱者亡,人之性也。治強者王,古之道也

韓非子
むかしの王は努めて民と親しみ、行政を行うには明示した法に従った。法が明示されていれば家臣は忠義を励み、罪は必ず罰すれば悪の家臣は居なくなった。そのようにしたために領土を広げ、君権が強くなったのが秦国だ。家臣がつるんで正しい政道を阻み、私利私欲に走った結果、領土を縮め君権が弱くなったのが斉国だ。乱れて弱くなったものは滅ぶのが、人の本来の姿だ。よく整い強い者が王になるのが、いにしえの道だ。(『韓非子』飾邪2)

さて論語の本章に話を戻せば、「爲力不同科」は現代スポーツの常識でもあり、読者にも納得できるだろう。だが「射不主皮」とは、なんたる馬鹿げた精神主義か、当たらねば意味が無いではないか、と思われても仕方が無い。だが弓は当てようとすればするほど、当たらない。

あらゆる武術に共通することは、無駄な力をかけないことだ。力んで立っている者が「膝カックン」で転ぶ道理と同じで、人間の筋力には限界があるからには、持てる力を必要なときに必要なだけ用いるのが、どの武術でも奥義と言ってよい。弓術もその例外でない。

弓は引き絞り、その体勢をしばらく維持する必要がある。この持久の必要があるために、余計な力を使ってはすぐにくたびれてしまう。いつ放つかは誰も教えてくれず、何も基準となるものがない。当てようとすればそこに欲が加わり、焦ってその時ではないのに放ってしまう。

あるいは放つべき時を失う。足の安定した射場で放つ場合ですら、あたるか中らないかは「それ」が決める(オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』)。訳者はこの呼吸を自分の体験として文字にしようとしているのだが、こればっかりはどうも経験の無い人には伝えがたい。

孔子生前の弓とは、貴族の必須教養で、戦場で揺れる戦車に乗りながら、矢をあてる技能が求められた。孔子塾の塾生は、ほぼ全てが庶民の出身で、孔子塾で学ぶことで、貴族に成り上がろうとした。だから孔子が言ったのは、「中てなくてよい」ということではない。

論語 春秋戦国時代 戦車
孔子一門にとって、射術は徹頭徹尾実用の技能で、最後には中らなければならなかった。射の精神的な何かは、中るに伴う技能に過ぎない。なぜなら中てられなければ貴族になれない。貴族になれないなら、孔子塾に入った意味が無い。詳細は論語における「君子」を参照。

中てなくてはならないが、中るようになるにはどのようなカリキュラムや等級分けが必要か、それを説いたのが論語の本章と見るべきだ。まずは当てようとする欲を除く。次に出来すぎる者がまざって、やる気をなくすのを防ぐ。ドングリの背比べが、最も良く伸びるのだ。

ゆえにこの武術的背景を理解しないで、想像や猿真似で勝手なことを書いている「訳本」は、全てデタラメと断じてよろしい。下掲はその一例である。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/056.html

告朔 餼羊
論語の本章の史実性を検討するには、上掲の通り文字史で十分だが、「告朔」なる儀式が果たしてあったかどうか、月初めを告げる儀式が春秋諸国にあったと想像するのはたやすいが、それが「周王から頒布されたこよみを受け取る儀式」とまでは言えない。

「告朔」は『春秋左氏伝』文公六年・同『穀梁伝』文公六年文公十六年・同『公羊伝』文公六年に見えるが、「天子告朔於諸侯,諸侯受乎檷廟,禮也。」と周王の主催であることを記しているのは『穀梁伝』文公十六年だけであり、他の二伝になぜ漏れたのか疑問がある。

さらに「告朔」を周王主催のそれとして儒家が記したのは後漢の時代まで下り、『史記』では次の通り記す。

幽、厲之後,周室微,陪臣執政,史不記時,君不告朔,故疇人子弟分散,或在諸夏,或在夷狄,是以其禨祥廢而不統。

論語 史記
周の幽王(位BC781-BC771)・厲王(位BC877-BC841)以降、周の王権は衰え、家臣の家臣が執権となり、年代記は記事を記すのを止め、王は告朔=月初めを告知するのを止めた。だから天文学者の弟子は食えなくなって各地へ散り、ある者は中華諸国に雇われ、ある者は蛮族に雇われた。その結果、吉日凶日の区別がでたらめになって、国ごとに異なる事になった。(『史記』歴書7)

これには『春秋左氏伝』の裏付けがあり、孔子の生前、魯国は自前で暦を作っていたことが知れる。

冬,十二月,螽,季孫問諸仲尼,仲尼曰,丘聞之,火伏而後蟄者畢,今火猶西流,司厤過也。

春秋左氏伝 定公五年
哀公十二年(BC483)冬十二月、暦では寒い季節のはずなのに、夏に出るイナゴの被害が起こった。筆頭家老の季康子が孔子にわけを問うた。

孔子「火星が地平線に隠れてから、イナゴの害は収まるものです。今火星はまだ西の空に上がっています。これは天文官が暦を作り間違えたのです。」(『春秋左氏伝』哀公十二)

従って、孔子の生前、それも弟子の子貢が国政に口を出せるようになった晩年、魯国がありがたそうに周王の暦を受け取る儀式をしていたとは考えづらい。仮に儀式はあったにせよ、それは魯国が暦を発布して月初めを宣言する儀式であり、周王うんぬんは儒者の作文に過ぎない。

孔子 革命家
これは、孔子の政治思想が国公や周王の権威と権力を復活させることにあったと言いたがる儒者のでっち上げで、私立巫女の私生児という、社会の底辺に生まれながら、宰相格に上った孔子は復古主義者でありえるわけがなく、その実は革命家にほかならない。

孔子はおそらく抽象的な政治思想を持たす、政治に対して望んだのは、為政者にふさわしい技能と教養を身につけた人物が、ふさわしい官職を得ることにあった。初の亡命先である衛国で、現代換算で111億円もの年俸を貰いながら、政府乗っ取りを謀ったのはそれゆえだ。

当時の衛国は人材豊富で、反乱を繰り返す、面倒くさい住民がいるまちを子路に押し付けた以外は、弟子を誰も雇わなかったからだ(論語憲問篇20)。『史記』はその顛末をお上品にしてしまったが、実は滞在先におまわりがうろつき始めたので、孔子は脱兎の如く逃げ出した。

子路が蒲の領主になった。しばらくして孔子の滞在先に出向いて挨拶した。

論語 子路 あきれ 論語 孔子 せせら笑い
子路「ほとほと参りました。」
孔子「蒲の町人のことじゃな? どんな者どもかね。」
子路「武装したヤクザ者が、町中をぞろぞろと大手を振ってうろついていて、手が付けられません。」(『孔子家語』致思19)

「告朔」をうるさく言う儒者の書き物が後漢に集中していることも実の孔子との乖離を裏付け、前漢に入ってから皇帝権力の絶対をうたって権力に近づいた儒家は、孔子の教説を徹底的に、帝権に都合よく書き換えて帝室に売った。後漢では加えて信じがたい偽善がはびこった。

詳細は後漢というふざけた帝国を参照。論語の本章の再出は、その後漢の王充による『論衡』が初で、定州竹簡論語はあまりのふだの欠けようから、果たして本章を記したものかどうか怪しまれる。現物はすでに紅衛兵が粉々にしてしまったから、事実は誰にも確かめようがない。

子貢去告朔之餼羊,孔子曰:「賜也!爾愛其羊,我愛其禮。」子貢惡費羊,孔子重廢禮也。故以舊防為無益而去之,必有水災;以舊禮為無補而去之,必有亂患。儒者之在世,禮義之舊防也,有之無益,無之有損。庠序之設,自古有之,重本尊始,故立官置吏。官不可廢,道不可棄。儒生、道官之吏也,以為無益而廢之,是棄道也。夫道無成效於人,成效者須道而成。然足蹈路而行,所蹈之路,須不蹈者;身須手足而動,待不動者。故事或無益,而益者須之;無效,而效者待之。儒生、耕戰所須待也,棄而不存,如何也?

王充
子貢が告朔の餼羊を廃止すると、孔子は「子貢よ…。」と言った。子貢は羊の出費を嫌い、孔子は儀式が廃れるのを重大とみた。なぜかと言えば、古くさい掟に意味が無いからといって止めると、必ず洪水に遭うからだ。古くさい掟が役に立たないからと言って止めると、必ず反乱が起きるからだ。

儒者がこの世で存在意義があるのは、礼儀作法が古くさい掟だからだ。そんな掟は有っても儲からないし、無しでも済む。学校のたぐいは昔から有るが、教説の始まりを重んじ尊ぶよう教えるのは、養成するのが役人だからだ。役人無しでは帝国は成り立たず、儒教に基づいた政道は捨てるわけに行かない。

儒者は上下の役人を教えるのだが、役立たずだからと言って儒者をクビにするのは、儒教に基づいた政道を捨てる事になる。この政道が無ければ人の世に業績は存在せず、業績とは必ず儒教の政道によって達成される。だがこの政道に従っているつもりでも、必ず従いきれない事柄がある。手足を思うように動かすつもりでいて、その実思い通りには動かないのと同じだ。

だから無益に見える物事でも、利益を挙げるには必須の条件だし、効果が無いように見えて、実はいずれ効果を現すのだ。儒者とはそのような者たちであり、直に世の中に存在意義を見せる農民や兵士は、どうやっても儒者無しではやっていけない。もし儒者を世から追い払えば、一体どういうことになるのだろう。(『論衡』非韓3)

訳していて、あまりの身勝手に頭がクラクラしてきた。これが後漢儒というものだ。

漢文業界は日中にかかわらず、訳者の如き私立文系バカばかりで、その頭の悪さから、分からないものを分からないと言えない。シュワルツシルト半径の向こうは絶対に見えず、プランク定数より小さいものも絶対に見えない。それは物理的には、存在しないと同義になる。

おそらく微積分あたりでつまずくから、文系バカは極限が理解出来ない。帝政日本や現中国のように、漢学教授が御用学者ばかりだと愚劣は一層で、権力に迎合して、無いものを有るといい、有るものを無いと言い、カラスを白いと言い張る。だからいつまでも漢文が読めない。

あるがままに認めよう。馬鹿者は馬鹿者だ。そうしないと、論語もやはり解読できないから。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/057.html

ヨーロッパに火器を主武器にする騎兵が現れると、やがて竜騎兵と呼ばれた。射程を犠牲にして弾の拡散を狙ったラッパ銃を持ったからで、その発砲が火を噴くドラゴンにたとえられた。揺れと飛び道具の命中が、いかに両立しがたいかを物語っている。

同時期、清の騎兵も銃を装備たが、鳥銃と呼ばれる狙撃銃だった。だが先込め式だから一発撃てば終わりで、ゆえに必ず弓矢も同時に携行した。狩猟民の満洲人にはなじみがあったし、速射を狙ったからだが、やはり揺れと命中が、両立しがたい事を物語っている。

八旗兵

カスティリオーネ「乾隆大閲図」北京故宮博物院蔵

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/047.html



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