本日の改訂から

論語の本章、「事君盡禮」は、孔子より一世代上の斉の宰相、晏嬰(尊称されて晏子)の言行録に記されている以外、先秦両漢の誰も引用していない。「人以為諂(也)」は皆無。論語の本章の再出は事実上、古注『論語集解義疏』ということになる。

叔向問晏子曰:「正士之義,邪人之行,何如?」晏子對曰:「正士處勢臨眾不阿私,行于國足養而不忘故;通則事上,使卹其下,窮則教下,使順其上;事君盡禮行忠,不正爵祿,不用則去而不議。其交友也,論身義行,不為苟戚,不同則疏而不悱;不毀進于君,不以刻民尊於國。故用于上則民安,行于下則君尊;故得眾上不疑其身,用于君不悖于行。是以進不喪亡,退不危身,此正士之行也。


晋の叔向が晏子に問うた。「正しい貴族の行動原則と、邪悪な者の行いとは、どのようなものですか。」

晏子「正しい貴族は権力を握ったら、誰に対しても公平で、国家の繁栄に貢献し、古いなじみの恩を忘れません。法に通じて主君に仕え、下の者の憐れみの心を励まし、危急の時には下の者に事情をよく説明し、上の者を従わせます。主君に仕えるには礼を尽くして忠義を貫き、朝臣の身分や俸給を変えませんが、役に立たない者は罷免してその是非を誰かに問いません。友との交わりは、自分を振り返って行動を正しくし、むやみにベタベタせず、意見が違えば口を閉ざして怒らず、正しいと思えば余計な事を言わずに主君に採用を勧め、民をいじめず国を尊びます。だから高い地位に就けば民が安心し、低い地位に就けば主君が目をかけます。だから人気が集まっても主君の疑いを受けず、主君に用いられても悪事を働きません。だから出世はしてもクビにならず、辞任しても復讐にやって来る者がない。これが正しい貴族の行いです。」(『晏子春秋』叔向問正士邪人之行如何晏子對以使下順逆)

ところが同じ晏嬰が、『史記』では孔子の「盡禮」を批判する者として出る。

儒者どもは煩雑な礼儀作法を説き、それはどれだけかかっても学び尽くせはしません。節約を説きながら、儀式は派手にやれと矛盾しています。(『史記』孔子世家)

どちらが本当なのか。あるいは孔子と晏嬰とで「盡禮」の解釈が違うと言えばそれまでだが、まとめて前後の漢儒によるでっち上げと考えた方がいいだろう。司馬遷は読書家で地方の古老に取材して回ったが、資料がニセで古老が一杯機嫌でデタラメを語っていない証拠は無い。

また漢字で”へつらう”を意味する字には『大漢和辞典』によると以下があり、「壬」などは甲骨文の昔からあるから、論語の本章を含め『晏子春秋』のこの部分も当時から有ったと言い張れなくはないが、どちらも前漢以降の創作と考えるのが筋が通る。

へつらう 漢字

加えて論語の本章は、定州竹簡論語に存在しない。古注では、前漢の孔安国が注を付けているが、この男は高祖劉邦の名を避諱しないなど、実在が疑わしい。

註孔安國曰時事君者多無禮故以有禮者為諂也

孔安国
注釈。孔安国「当時宮仕えをする者には、無礼な者が多かった。だからたまに礼を尽くした者が出ると、”へつらいだ”と悪口を言ったのである。(『論語集解義疏』)

古代人だろうと、「どこが注釈なのか、どうでもいい話ではないか、そもそも本当に見てきたのかお前」と思っただろう。こういう下らぬウンチクを垂れるのは、ふざけた後漢の風味がする。本章はおそらく後漢儒によるでっち上げだろう。詳細は後漢というふざけた帝国を参照。

以上を踏まえ、それでもなお孔子の「盡禮」については考える必要がある。孔子が『論語』の文中でたびたび「礼」に言及したのは事実だし、孔子塾で必須科目に「礼」が入っていたのも疑わしくは無い。ゆえに孔子が「礼」にこだわったのは事実だろう。

孔子塾は庶民を教育して貴族にふさわしい技能教養を授け、貴族に成り上がらせる塾だったから、礼儀作法と無縁だった庶民出の弟子たちは、改めて孔子から礼儀作法を教わる必要があった。生まれつきの貴族でない彼らには、決まり事をカクカクとその通りにやる必要があった。

生まれつきの貴族なら、「そんなにしゃちこばらなくていいんだよ」と自前の感覚で判断が出来るが、礼法が後付けの孔子塾生にそれは無理である。そんな貴族界の新参者が、血統貴族に「大げさに過ぎる」と見られたことは、おそらく事実だろう。

それは武道や他の道の道場で今日見られるように、必ずしも笑いものになるとは限らない。むしろ微笑ましく見られたかも知れない。だがおおげさである事に変わりは無く、その意味で論語の本章そのものは、偽作と断じるしか無いが、ある程度史実を踏まえた話だろう。

もし今後、論語時代の「諂」の字が発掘されたとすると、孔子は自分らの「礼」が大げさであることを重々承知しつつ、それでも規定通りの作法を貫けと、弟子に教えたのだろう。孔子自身も自らの出身の低さを痛感しており(論語子罕篇6)、礼法に手を抜けと言えなかったはずだ。

だがこれはあくまで仮定で、論語の本章は史実の可能性があると言えるに止まる。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/058.html

論語の本章は、後漢初期の『白虎通義』(礼楽2)が再録するまで、春秋戦国の誰一人引用していない。もう一つの引用も『後漢書』郭陳伝であり、定州竹簡論語の残簡は、本当に本章のものかといぶかしくなる。少なくとも史実の孔子の言葉ではない。


現伝の儒教が言う「礼」は、孔子生前にはほとんど存在しなかった。

前漢になって儒者が自派を帝室に売るに当たって、儒者と帝室に都合よく、その多くを創作したのが現伝の『礼記』のたぐいであり、「礼儀三百、威儀三千」と呼ばれる繁雑な作法が、孔子の時代にあったわけではない。儒者は礼法の解釈を独占して、中国を牛耳ったのである。

そんなものを露知らぬ、放浪して苦労する前の孔子は、自分の正義を疑わず、厳罰主義で魯国を縛り、住民の口を封じた(『史記』孔子世家)。門閥家老家の根城を壊して回ったのも、根城の規模の礼法違反を理由にしたとされるが、本当に当時そんな規定があったか定かでない。

この根城破壊は、むしろ門閥の希望で行われた節がある。当時、根城を預かる代官が、領主に対して謀反を起こすことがあり(論語陽貨篇5)、それに手を焼いた門閥筆頭の季孫家は、むしろ破壊に協力的だった。だが孟孫家の代官が頑強に抵抗したため、破壊は失敗に終わった。

孟孫家は先代が孔子の才を見出したことをきっかけに、孔子を政界に押し上げた門閥で、むしろ孔子の応援者だったのだが、春秋時代の大貴族は、譜代の家臣や領民にそっぽを向かれると、まず天寿を全うできない。代表例が定公先代の昭公や、次代の哀公である。

だから孟孫家の当主である孟懿子は、孔子に味方したくても出来なかった。孔子が根城破壊に伴う門閥の反対で、国を出ることになったと言う『史記』などの説は、実は全くの作り話だ。主君である武帝が気に入っている儒家の開祖の真相を、記せるほど司馬遷は偉くない。

武帝の機嫌を損なえば、今度はナニだけではなく首までちょん切られるからだ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/059.html



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