本日の改訂から

論語の本章、「哀公問主(社)於宰我」は、先秦両漢の誰一人引用していないし、定州竹簡論語を除いて再録していない。それ以降は古注の原形に、孔安国が注を付けているが、例によってこの男は実在そのものが疑わしい。ただし新~後漢初期の包咸も注を付けている。

註孔安國曰凡建邦立社各以其土所宜之木宰我不本其意妄為之說因周用栗便云使民戰栗也…註苞氏曰事已成不可復說解也…註苞氏曰事已遂不可復諫止也…註苞氏曰事既往不可復追非咎也孔子非宰我故厯言三者欲使慎其後也

孔安国 包咸
注釈。孔安国「国を建てるときには鎮守の森を建立する。それには、それぞれ地域にふさわしい木を選ぶ。宰我はその本義に基づかず、でたらめなことを言った。だから”周はクリを植えて民を戦慄させた”と言ったのである。」…注釈。包咸「”事、すでに成る”と言ったからには、説教できなかったのである。」…注釈。包咸「”事、すでに遂げる”と言ったからには、もはや咎めることが出来なかったのである。」注釈。包咸「”事がすでに済んでしまったから咎めない”と言ったのは、孔子は宰我を非難して、三度繰り返して今後の慎みを求めたのである。」(『論語集解義疏』)

馬融 鄭玄
存在の疑わしい孔安国や、低能かつ人格破綻者の馬融や鄭玄と違って、同じ古注の儒者でも包咸のまじめはすでに記した(後漢というふざけた帝国)。そのまじめ人間が、こんな下らない注釈を書き付けているからには、おそらくこの包咸の注そのものがでっち上げなのだろう。

「松」「柏」「栗」については、下記の二例のみ。

夏后氏,其社用松,祀戶,葬牆置翣,其樂夏鑰、九成、六佾、六列、六英,其服尚青;殷人之禮,其社用石,祀門,葬樹松,其樂大濩、晨露,其服尚白;周人之禮,其社用栗,祀灶,葬樹柏,其樂大武、三象、棘下,其服尚赤。

夏王は、やしろに松を用い、扉で祭祀を行い、墓室の壁にタペストリーを飾り、その音楽は夏鑰、九成、六佾、六列、六英(全て未詳だがそもそもでっち上げ)といい、礼服は青を重んじた。殷人の礼法では、やしろに石を用い、門で祭祀を行い、墓には松を植え、その音楽は大カク、晨露(共に開祖湯王が作ったという)、礼服は白を重んじた。周人の礼法では、やしろに栗を用い、かまどで祭祀を行い、墓には柏を植え、その音楽は大武(武王が作ったという)、三象(ぶおうまたは周公が作ったという)、棘下(武王が作ったという)、礼服は赤を重んじた。(前漢『淮南子』斉俗訓15)

《尚書》亡篇曰:「太社唯松,東社唯柏,南社唯梓,西社唯栗,北社唯槐。」

『書経』の失われた篇にいわく、「王が天下を祭る大社には松だけを、東のやしろには柏だけを、南のやしろには梓だけを、西のやしろには栗だけを、北のやしろには槐だけを植える。」(後漢『白虎通』社稷9)

なぜ失われた篇を知っている? でっち上げを言うにも程がある。大昔からこういうデタラメをまじめな顔して言いふらすから、中国は古代文明を誇ったにもかかわらず、その後は下落するばかりの歴史になった。現中共政府もこの点では全然変わらない(夏殷周プロジェクト)。

だがこんな作り事を、今なお金を取って偉そうに講釈している日本の漢学教授はもっと愚劣だ。うそデタラメの世界ばかりにふけっているから、仮に元は真人間だったとしても、研究対象に脳みそがやられてバカになり、ウソを恥ずかしいとも思わなくなってクズにもなる。

漢学に価値なし。不幸の再生産はもうやめよう。

それはさておき、上記語釈でも記した通り、夏后=夏王が創作されたのは、孔子没後に現れた墨子の仕業で、墨子は儒家を圧倒するため、彼らの崇拝した周の文王・武王に先立つ聖王として、夏王朝の始祖・禹を創作し、自派の得意分野である土木技術の開祖に据えた。

従って孔子も宰我も哀公も、殷王朝は知っていたが夏王朝や禹王を知らず、その鎮守の森をどうこう言うことがあり得ない。論語の本章は定州竹簡論語にあることから、前漢の宣帝期には存在したが、おそらく董仲舒等によって創作されたと考えるのが筋が通る。

董仲舒はいわゆる儒教の国教化に伴い、顔淵を神格化するため論語に少なからぬ贋作を混ぜ込んだ。本章では宰我のこき降ろしを行ったわけだが、その理由はよく分からない。後漢儒も同様で、その創作である『大載礼記』に、黄帝を疑って孔子に叱られる話を作文している。

宰我 孔子 激怒
宰我「黄帝は三百歳も生きたなんて、そりゃ人ですか、それとも何か妖怪のたぐいですか。」
孔子「こうらぁ~! このバチあたりがッ!」(『大載礼記』五帝徳篇)

宰我は孟子によって弁舌の才で孔門十哲に加えられたが(孔門十哲の謎)、後世に派閥が残った形跡が無く、同時代に何をしたのかの記録も無い。わずかに百官を監督する才を楚王に認められた記事が『史記』にあるのみ。

子西「王の官吏の目付役で、宰予ほどの者がいますか。」
楚王「おらぬ。」(『史記』孔子世家)

孟子は孔子没後一世紀に現れた人物だから、ぎりぎり孔子一門の実情を知った上で宰我を十哲に加えたのだろうし、すでに滅ぼし合いの世になっていた春秋末期の楚王が、根拠無く宰我を評価するわけもない。後世の儒者は揃って、宰我の悪口を創作するのみで参考にならない。

その僅かな例外が、『孔叢子』にある。

宰我が斉に使いに出て戻り、先生のお目にかかって言った。

「梁丘キョさまが毒蛇に噛まれまして、三十日ほど寝込んだ後に回復しました。そこで斉国公にご挨拶なされ、ご家老衆ともお会いになりましたが、みなさま駆けよって、お祝いを申されました。私もその席にいたのですが、お集まりの皆様、どの方もヘビ毒の治し方を梁丘さまに申されました。それで私はお歴々に申し上げました。

”皆様がお話しの療治法は、病の最中にこそ意味のあるものでしょう。いま梁丘さまはご回復なされたのに、皆様方は療治法を仰せになる。一体何の役に立つのです? 梁丘さまに、もう一度毒蛇に噛まれろとでも?”

皆様方は声を失って、黙って仕舞われました。私の申し上げた話をどう思われますか?」

孔子「お前の話は良くない。たとえ名医だろうと、駆け出しの頃には患者の腕を三度折って、ようやく名医になれると言う。梁丘どのは噛まれて治ったが、今後同じ目に遭う者は必ず出るし、必ず療治の法を求めるだろう。だから皆様方は、ご存じの治療法を申されたのだ。それは人の病を癒したいからだろう。治療法を人に言う者は、それだけで善人と言って良い。ただその治療法に、効き目の優劣があるだけだ。」

https://kuzousi.kyukyodo.work/01kagen/004.html

おそらく宰我は顔淵同様、人に語れない孔子一門の謀略部門を担い、長官の顔淵の下でエージェントとして、春秋諸国に派遣されていたのだと思う。だが子貢と違って、その場に合わせた腹芸が出来なかった。こういう性格は監察官に向いている。楚王が評価したのももっともだ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/061.html



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