本日の改訂から

論語の本章をうんぬんする前に、重複を恐れず中国史について声を励まして言わねばならないことがある。中国史の連続性を保証してきたのは、漢字ただ一つと言ってよいが、その始祖である甲骨文は、21世紀初頭の現在、遺蹟をどうほじくってもBC14世紀までしか遡らない。

中国歴代王朝年表
つまり、800年を幅とするこの年表の一番上の帯の時代は先史時代で、夏王朝など有りはしなかったし、それ以前の堯舜や黄帝ももちろん架空の人物だ。その事実に耐えられなくなった現中共政府は、御用学者を集めて夏殷周年代プロジェクトなるインチキを行った。

上記の表では西周の成立(通説ではBC1027)まではそのインチキに付き合った年代を載せているが、もとより真に受けられる話ではない。BC1373は、甲骨文に月食の記録があるとされる年だが、考古学的には甲骨文字の出る殷(墟)への遷都は、3代あとの武丁の時代だとされる。

殷周の王朝交替も、「今日から周になりました」というものではなく、周が殷の都を落として以降、殷の残党と旧服属国の征服に相当時間が掛かった(三監の乱)。さらに殷の領域より外にいた部族が、売り出し中の周という国家組合に入ることで、周はその勢力範囲﹅﹅﹅﹅を広げた。

決して「領地」や「領土」ではない。元からの土侯の存在を認知しただけである。そもそも楚国に至っては、殷周の黄河文明圏に対峙する長江文明圏のかしらで、ゆえに国君ははじめから「王」を名乗った。西方の秦も周王室よりよほど毛並みのよい、顓頊の末裔を名乗った。

『史記』は言う。

三十年春,齊桓公率諸侯伐蔡,蔡潰。遂伐楚。楚成王興師問曰:「何故涉吾地?」管仲對曰:「昔召康公命我先君太公曰:『五侯九伯,若實征之,以夾輔周室。』賜我先君履,東至海,西至河,南至穆陵,北至無棣。楚貢包茅不入,王祭不具,是以來責。昭王南征不復,是以來問。」楚王曰:「貢之不入,有之,寡人罪也,敢不共乎!昭王之出不復,君其問之水濱。」

論語 史記
斉の桓公の三十年(BC656)。桓公は諸侯を率いて南方の蔡を討伐し、取り潰した。その勢いで楚に攻め込んだ。楚の成王が迎撃軍を率いて対峙し呼ばわった。

楚王「なんだお前らは。何しにワシ等の国に踏み込んだ?」
管仲「(ガクブル)えーとですねぇ。むかし周の摂政だった康公が、我が斉の開祖・太公望姜尚に命じました。”五人の侯爵と九人の伯爵を任命した。そなたも領地に帰って、周王室を助けてくれ”と。それで東は海、西は黄河、南は穆陵(山東省の南)、北は無棣(河北省)を与えられました。」

楚王「だから何だ。」
管仲「だから周王室のための出兵でござる。貴国は周王室にカヤの葉を納める義務がありながらサボっています。だから周王室の祭祀に差し支えています。ちゃんと貢納なされよ。そのうえ先頃周の昭王陛下が、貴国に出兵されたまま還御なされていない。これはどういうことでござる?」

楚王「カヤを納めろ? 知らんぞそんなの。まあこれも付き合いゆえ、今後は送ってやらんでもない。じゃが昭王陛下がいなくなった件は、ワシは知らん。どこぞの川岸で、土左衛門でも探すんだな。」(『史記』斉太公世家36)

「何だ手前ェらぁ」と言われて重機をぶっ放せたバトーと違い、管仲は明らかにしくじっている。その管仲が死ぬと楚は進撃の巨人に変身、周に取って代わるつもりで北伐を始め、途上の小国は踏み潰された。唯一対抗できたのが晋で、春秋後半はその南北抗争史と言える。

中朝韓人が古証文や捏造文を持ち出して、「我のものアル」「ウリナラ発祥ニダ」と言い張る始めは、かように春秋時代にあるわけだが、いずれも自分がウソでニセだと自覚しているからで、管仲も調子に乗ったらあまりに楚が大軍で、真っ青になって一生懸命ハッタリを言った。

従ってうそ泣き儒者が言いふらした、「東周になって諸侯国が勝手なことをし始め、周王の権威が衰えた」という前半はウソである。楚や秦のような国は、もともと周王の臣下ではなかった。組合に入ると技術移転があるから、仕方なしに頭を下げるふりをしただけだ。
論語 地図 周

日本史の戦国の三傑がそろって南蛮人を歓迎したのは、鉄砲や地球儀や遠めがねを持ってきたからで、自前で生産できるようになると出島などに閉じこめたり、捕らえてあぶるなどの蛮行をした。人間は好奇心が強い一方で、あまりにヘンなやつとは付き合いたくないのである。

孔子の生国である魯は、周王室の一員である周公の末裔が国公の国だが、それでも孔子の時代、王室を当てにせず勝手に天体観測をして暦を作っていたことを論語八佾篇17に記した。だが周王室の王統や、周が殷を滅ぼして立国したことは魯国貴族の常識だったろう。

ゆえに孔子が知っていたのはせいぜい殷王朝までで、史実の孔子に「舜」と言えば、「誰じゃそれは」と聞き返されること必定だ。周の武王は知っていたろうが、孔子が音楽に優れていた伝説は残っていても、武王が作った曲やそもそも作曲の事実の証拠が残ってはいない。

『史記』は次のように言う。

孔子は鼓と琴を師襄子に学んだ。一曲を学んで十日過ぎたが、次の曲に進まなかった。
師襄子が言った。「もう次の曲に進んでも良いぞ。」
孔子が言った。「曲は習い覚えましたが、その論理が分かりません。」
しばらくして師襄子が言った。「もう論理は分かったろう、次の曲に進んでも良いぞ。」
孔子が言った。「論理は習い覚えましたが、その心が分かりません。」
しばらくして師襄子が言った。「もう心は分かったろう、次の曲に進んでも良いぞ。」
孔子が言った。「心は習い覚えましたが、その作曲者が分かりません。」

しばらくして孔子が言った。「作曲者が分かりました。色黒で背が高く、目つきはぼやけて何も見ていないかのよう。天下統一のお人と見えました。文王でなければ、ほかの誰がこんな曲を作れましょう。」師襄子は上座を降りて孔子を二度拝み、言った。「我がお師匠も、おそらく文王の作だと言っておられた。」(『史記』孔子世家)

訳者は音楽に暗いのでよく分からないのだが、曲を聴いただけで作曲者の顔つきまでわかるものだろうか。この話は司馬遷が旧魯国当たりの古老から取材したのだろうが、古老が一杯機嫌でデタラメを語っていないとは誰にも言えない。荒唐無稽と切り捨てて構わない。

荒唐無稽と言えば、孔子没後一世紀の孟子がでっち上げた、舜の聖王伝説は読めば分かるが、子供でもでっち上げと分かる出来の悪い伝説で、戦国末に墨家が勝手にコケたりしなければ、ひょっとすると現在まで伝わらなかったかもしれない。

中国古代の聖王伝説をおさらいすると、まず周王朝の開祖・文王が聖人だとされた。これは周王朝治下の孔子は当然受け入れた。またその息子である周公旦は、魯の開祖であることからこれも聖人とされた。二人は実在の人物だから、それなりに具体的な記録が残っている。

夏禹王 墨子
だが孔子没後、「あとを継げ」と孔子が誰にも言わなかったので、儒家は一旦滅びた。孔子の孫弟子当たりにあたる墨子は自派を立ち上げ、その開祖に殷より古い夏の初代、禹王をでっち上げた。禹王が治水に優れているとされるのは、墨家の得意技術が土木だったからである。

やがて孔子没後一世紀、孟子が現れるが、当時は墨家と雑家の楊朱が天下の学界を二分していた。そこへ割り込んだ孟子は儒家を再興、顧客である王の家格に箔を付けるため、禹王に位を譲った王・舜をでっち上げた。こうなるともう、誰にもでっち上げ合戦は止められない。

各学派によって屋上屋を架し、堯・神農などが作られ、道家が最古の帝王・黄帝を作って定着したところで秦帝国が成立した。その頂点に、うそデタラメに本気で怒る始皇帝が現れるに及び、学者も世間師も拷問されたり首をちょん切られるのが恐ろしくて、捏造を止めた。

論語 始皇帝
つまり遠回りながら中国史を確定させたのは、秦の始皇帝ということになる。さて上記の通り「韶」は戦国末期の荀子も引用しているのだが、文字が後漢にならないと出現しないことから、『荀子』のその章がでっち上げの可能性があるし、同音の「召」だったかも知れない。

故無首虜之獲,無蹈難之賞。反而定三革,偃五兵,合天下,立聲樂,於是武象起而韶護廢矣。

荀子
(周の武王は殷の紂王を討ったが、殷軍が勝手にコケたので、)だから首や捕虜を取らず、部下に褒美も与えなかった。根拠地に帰還して鎧兜を仕舞い、武器を仕舞い、天下を統一し、国定音楽を定め、その結果「武象」の曲が流行って「韶護」は廃れてしまった。(『荀子』儒效18)

ここで「韶」ではなく「韶護」と言っている。「韶護」は『大漢和辞典』によると、殷の湯王の作、あるいは「韶」が舜の作、「護」が湯王の作という。何が何だか分からないが、いずれも儒者が勝手に言いふらしたデタラメで、つじつまを合わせて解釈する必要も無い。

「武象」の曲についても同様で、「武」とは言っていない。これも『大漢和辞典』とそこに載った儒者の出任せによると、「武象」は武王を讃えた曲、あるいは「武」は武王の作、「象」は周公の作だという。こちらも真に受けるだけ損だから、「ふ~ん」で済ませるのがよい。

韶護 大漢和辞典 武象 大漢和辞典
『大漢和辞典』「韶護」・「武象」条。クリックで拡大。

両方に登場する司馬相如ショウジョという男は、春秋の名将司馬穰苴ジョウショに名が似ているが別人28号。前漢武帝期に現れた、訳者のような私立文系バカをこじらせ切った馬鹿者で、そのポエムが史実を明らかにするわけがない。その他の注も、後代の儒者が勝手な出任せを言っているだけ。

ただ問題なのは漢字の音で、「韶」のカールグレン上古音はȡi̯oɡ(平)、同音に「紹」”つぐ・うける”、「邵」”邑の名・姓”、「召」があっていずれも荀子がそう書いた可能性が残る。ところが論語に大量のデタラメを書き込んだ董仲舒が、こんなことを言い出した。

舜時,民樂其昭堯之業也,故《韶》。「韶」者,昭也。

董仲舒
舜の時代、民は先代の堯王の政治があかるいことに満足してちんちんドンドンを奏でました。だから曲名を「韶」といい、「韶」とは「昭」であります。(『春秋繁露』楚荘王6)

「昭」のカールグレン上古音はȶi̯oɡ(平)、「韶」のȡi̯oɡ(平)が無声音になっただけではあるが別ものだ。五反野駅で降りても五反田までは20kmほどあり、4時間以上も歩かねばならない。こういう出任せを平気で言うのが儒者という生き物で、やはり「ふ~ん」で済ませるべきだ。

どうですみなさん。まじめに漢文を読むのが馬鹿馬鹿しくなったでしょう?

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/065.html

論語の本章は、文字史的には史実を疑えないが、字の用法に疑いがあり、春秋戦国の誰一人引用していない。「居上不寬」「為禮不敬」の再出は董仲舒の『春秋繁露』で、「臨喪不哀」は先秦両漢のどこにも見えず、「吾何以觀之哉」は後漢初期の『白虎通義』まで時代が下る。

是故以自治之節治人,是居上不寬也;以治人之度自治,是為禮不敬也。為禮不敬,則傷行而民弗尊;居上不寬,則傷厚而民弗親。

董仲舒
…だから自分で自分に厳しすぎる者は、「上に居てくつろがず」と言われ、自分同様に他人にも厳しいから、「お辞儀をしても心がこもっていない」と言われる。そういう見せかけの礼儀作法は、ニセモノだとバレて民も尊敬しない。自分に厳しすぎる者は、性格的な出来損ないで、誰も近寄ってこない。(『春秋繁露』仁義法1)

屈己敬人,君子之心。故孔子曰:「為禮不敬,吾何以觀之哉!」

白虎通義
自分から腰を低くするのが、君子の心得と言うべきだ。だから孔子は言った。「お辞儀をしても心がこもらないようでは、どうやってその人を評価したよいかわかるものか」と。(『白虎通義』礼楽2)

従って「臨喪不哀」まで全セットが揃ったのは、後漢末から南北朝にかけて編まれた古注『論語集解義疏』になるのだが、疏=三国以降の儒者が書き加えた注の注はあっても、漢儒による注釈は全く付けられていない。ゆえにおそらく本章の完成は、三国以降まで時代が下る。

此說譏當時失徳之君也為君居上者寛以得衆而當時居上者不寛也又禮以敬為主而當時行禮者不敬也又臨喪以哀為主而當時臨喪者不哀此三條之事並為乖禮故孔子所不欲觀故云吾何以觀之哉

鵜飼文庫版『論語義疏』 古注 皇侃
注の付け足し。この章は、当時の人格的出来損ないを述べた話である。君主として人の上に立つ者は、寛容だからこそ人望を得られるのだが、当時のお偉方は下の者に厳しかった。また礼儀作法は、仕草よりも心を重んじるべきだが、当時は礼儀作法を行う者はいたのだが、心を伴っていなかった。また葬儀では、心から悲しむのが重要なのだが、当時の葬儀の参列者は、悲しんでいなかった。この三つの事例は、どれも礼法に背いており、だから孔子は見るに堪えなくて、「私はどうやって見たらいいのだ」と言ったのだ。

「観」をただ”見る”と解しており、甲骨文から春秋時代にかけての原義は忘れられている。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/066.html



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