ロシア的「自由」

小生はyoutuberではないので、露宇の戦線を日々いちいち調べはしないが、その代わり誰かの間抜けや阿呆を言いふらしもしない。ただ過去の人類史にあったことと、現状を引き比べてものを思うのみ。

一次大戦の激戦に、ベルダン要塞の攻防戦がある。10ヶ月ほどの間に双方16万以上もの戦死者を出した悲惨な戦いだが、作戦を立案し実行させたドイツのファルケンハイン参謀総長にとっては、思い通りの戦いだったらしい。

この戦いでファルケンハインが望んだのは文字通りの消耗戦で、ドイツ軍と同数以上の被害が出れば、フランスは手を上げると考えた。つまり人口のより多いドイツの勝ちになると踏んだ。実際フランス側の戦死者はドイツより6万ほど多いとされるのだが、それゆえにファルケンハインはドイツ兵の死傷を気にしなかった。


wikipediaによると、開戦時のドイツ帝国の人口6,490万人に対し、第三共和政フランスの人口は3,960万人。なおロシア帝国が1億7,510万人、日本帝国が5,360万人。


気にしたのは現場の司令官だったウィルヘルム皇太子だった。ファルケンハインの言い分では、皇太子がこの戦いが消耗戦であることを理解しなかったせいで、ドイツ軍はこの戦いに負けたことになっている。皇太子は間抜けだったのだろうか。

そうではない。ファルケンハインのような役人でなかったし、強権的帝国ではあっても国民国家の皇太子だったからだ。つまり自国民の消耗に耐えられなかった。まことに役人は、独裁者よりも恐ろしい。

「一人の死は悲劇だが、百万の死は統計に過ぎない」と、レーニンあるいはスターリンは言い放ったことになっている。ソ連邦は建前上、人民の国家ということになっていた。だが民主主義でも共和国でもない王朝がいまでもあるように、羊頭狗肉と独裁政権は相性がいい。

囗シア連邦も建前上は民主国家という事になっている。だがその舵取りは変わらず役人が独裁的に執っている。皇帝が人民保護の聖者であると言ううそデタラメがまかり通ったように、囗シア人はこの程度の矛盾を気にするように出来ていない。

それよりも囗シア的「自由」свобода(スワボーダ)が奪われたのを気にかける。その「自由」の優先度たるやソ連国歌にも現在の国歌にも歌われるほど高い。だがこれは異文化人にとっては奇妙に見え、独裁や収奪や圧政は許しても意志や精神の不自由を許さない。

リフレーン冒頭

Славься, Отечество наше свободное,
(スラウシャー,アッチェーチェストワ ナーシェ スワボードナエ)
栄光あれ、我らが自由の祖国

だから徴兵には行くが、命令を聞かず好き勝手やったり、現地で略奪暴行したり、当直中にウォトカで酔っ払ったりしている。その代償として、役人が好き勝手やるのもとがめず、むしろ当然と思っている。だから日本や西欧人ほど人命の消耗を気にかけない。

その消耗戦がいま露宇の戦線で行われている。ゆえに個別にはいくらでも間抜けと言い得る露軍だが、この戦いがこのまま続けば、いずれ宇の負けに終わる。いくら金や兵器を援助されても押しつぶされる。だから小生は露側の間抜けを言わずむしろ怖れている。

むやみに怖れるのは間抜けだが、知りもしないで間抜け呼ばわりするのは、もっと間抜けではなかろうか。こういう連中が熊の巣穴の前で焚き火して、怒って出てきたからと言って文句をつけても、熊は決して引き下がらない。

いずれ喰われるにせよ、どうせなら理不尽でないと思って喰われたいものだ。



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