理系教

昨日の続き。

そもそも少なからぬ人間が、教育そのものを受け付けない。それを無いことにして教授内容を議論するのは、あまりに世間を知らなすぎる。だからこういう手合いは世間がチヤホヤする間は思い上がってこんな事を言うが、不遇には真っ先に暴徒化して不思議は無い。

ご覧なさい、このシッタン河の流れを。(会田雄次『アーロン収容所』)

今自分が直面している不運は、過去のあまたの人間が耐え忍んできた、ありふれた現象だと知らないからだ。それを教えるのが人文だが、思い上がった理系人は、好き勝手に馬鹿にすればいい。九分九厘は死ぬ前に、泣きわめいて世間から復讐されるのだから。

かつてトーダイあたりの中途半端な理系者が、カルト教団の人殺しに手を貸した事実に、不思議がる者がいくらかいた。たかが国立理系に入った程度の若造に、思慮分別を求めるのがそもそも間違っている。鰯の頭と同じで、バカバカしいと思うのだが。

人文業者に馬鹿が多いのは事実だが、だからといって理系者が賢いわけでも、当人以外の不幸を押しとどめるわけでもない。効き目のないカミサマは遠ざけるのが、まともな人間の分別というものだ。いろいろ変なものを拝むのは、もうやめたらどうだろう。


参考記事:天狗の作り方



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