これが本当に漢文を読めるということです。辞書以外の助けを借りず、時には辞書さえ疑って、誰の訳でもない自分の訳を作ること、しかも「こう解釈するのはこういう理由があるからだ」とはっきり言えることです。どんな権威だろうと、「誰それがこう言ったから」ではありません。
そもそも一つの原文につき、解釈は多様にあります。あらゆる漢文を読むために、その解釈を全て覚えることなど出来ません。しかもそれらの多くはとうに世を去った、ぜんぜん責任を取ってくれない古人の感想文に過ぎず、いくら覚えたところで翻訳が出来るわけではありません。
翻訳とは、不可解な言葉を分かる言葉に置き換える作業です。突き詰めると機械翻訳のように、原文と訳文の間には関数があって、「誰でも同じ訳文になる」のが理想です。解釈の幅は訳文が出来るからこそで、不可解なうちに勝手な解釈を言うのは、翻訳作業とはぜんぜん違うのです。その意味で漢文読解は、物理学に近い作業です。自然界からデータを集めて統計を取り、方程式を導くのが物理の重要な仕事ですが、漢文も膨大な文字列を時代その他で分類し、各分類ごとに原文から訳文を導く方程式を書けないなら、訳文もただの個人的出任せになってしまいます。
「君子は異常だ」とすでに述べました。「毒消ししないと読めない」とも述べました。「逃げる人が立派」という、とうてい理に合わないことを平気で書き散らし、言い回るのが、「君子」が頭のおかしな人々であることのあかしです。そして通説を説く権威のほとんどもその同類です。
それらをおかしいと言うためには、ねじ曲がり時に壊れた漢文を、整えて解釈出来ねばなりません。日本史上、多くの漢文読者は、儒者の個人的都合によるデタラメな解釈を、「何かヘンや」と首をかしげながら読んできたのですが、古今東西、おかしなものはやはりおかしいのです。




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