有料花火

花火大会の主催者が有料席を仕切りタダ見を許さないうんぬんでもめているらしい。そんな面倒くさい所へ行かねばいいのにと思うし、人ゴミが汚穢程度には嫌いな小生にとっては他人事だが、この半世紀ばかりの人類の進歩と、ぜんぜん変わらない部分を思ったりする。

花火大会の淵源を調べると、敗戦後に意気消沈した人々を鼓舞しようと、地方自治体や地元新聞社や鉄道会社が音頭を取り、地元の資本を集めて始めたというのが多い。もとより元気出して貰うためだから、カネを取ろうなどとは考えなかった。

ただし貴賓席というのはあったらしい。敗戦後バブル崩壊ごろまで日本も多くの古典社会同様、少数の金持ちに大勢がぶら下がって食って成り立っていた。お歴々は威張れる代わりに、なにがしかの形で世間にゼニを播かねばならなかった。代議士は家を潰すとも言われた。

これは金権選挙の温床でもあって、小生が学生時代に帰省したところ、近所のオバハンが「この町内ではナニガシさんに投票することになりました」とわざわざ触れ回りに来てびっくりしたことがある。だがそれは、運の悪い人が食える事と表裏一体でもあった。

そこへ来て前世紀末にはWinner takes all.が言われ、本朝でも自己責任という言葉が定着した。事あるごとに「運も実力のうち」と言われもした。この言葉自体は古くからあったらしいが、運の無い者が有る者を讃えるときに使う言葉で、勝者が口に出せば高慢ちきを嫌われた。

少なくともゼニを播きもしない者が言ってよい言葉ではなかった。だが今は違う。

つまり言葉の使い方が分からなくなったわけで、言い換えると世間の人文的教養が、ぜんぜん進歩していないことの証しでもある。今なお人間のクズ*が「こども論語教室」などを開くように、敗戦以降の科学技術的進歩とは相関せず、世間は人文的には無恥のままである。


*どギツイ言葉ではあるのだが、知的抵抗力のない子供に論語をすり込んで奴隷化を図る連中は、人間のクズとしか表現のしようがない。

こども論語塾 こども論語教室


運が悪い人間を全否定するようでは、その社会はもう終わっている。弱肉強食がまかり通るのなら、それをよしとする連中は脳みその少々多いサルではあっても、人間だなどと威張れた筋合いではない。これは社会的地位や財産とはぜんぜん関係ないのがミソである。

中途半端な理系人が私立文系を馬鹿にして一時の快を貪るのの被害にはさんざん遭ってきた。こういう連中が何か立派な人間だと勘違いされる程度には、人文というのは修めるのが難しい。カネにならないので、誰もその価値が分からないからだ。

例えば、どんな人でも馬鹿にされたら怒るし恨むのがごく当たり前の現象と認めるのが人文的知識で、だから恨まれるようなことをするなというのが人文的教養である。これらがないと高等数学が出来ても、現象の存在を否定したりする。つまり事実とすれ違う。

大規模公共事業に、先祖代々の土地や財産を差し出した素封家は、前世紀までは確かにいた。しかし今ではそのあたりの阿保たれ小僧同様、金主はガッチリとゼニを仕舞ってビタ一文出さない。これが増税を嬉しがる財務官僚を、どんなに後押ししているか分からない。

というわけで、愚かな者どもがひしめき合って、互いに相手をバカ呼ばわりし、騒いでなにがしかのゼニをふんだくろうとはかる。付き合う必要のない世の中と言うべきで、生物・地学的安定期が訪れるまで、しばらく人類はこうやって滅ぼしあうのだろう。

勝手にやったんさい。

しねばいいのに  トリオ



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