昨日の改訂

本字は諸本おおむね「脩」と記すが、文明年間(1469-1487、応仁の次)の本願寺坊主の手になる文明本は「修」と記し、清儒・劉宝楠の『論語正義』でも同様に「修」と記す。「月」”からだ”・”にく”と「サン」”毛”・”刷毛目”は明確に意味が異なり、「脩」・「修」は異体字ではない。文字的には論語語釈「修」を参照。

文明本は注に「行束修以上則皆教誨之也」、疏(注の付け足し)に「束修十束脯也」と、それぞれ「脩」→「修」に変えただけでそのまま古注の文字列を記しており、特に意味上の区別をつけるつもりで「修」と記したわけではないらしい。

日本人は室町初期まではしおらしく古伝の文字列を伝承していたが、本願寺坊主になるとこのような勝手な書き換えを行った箇所が少なくない。改める根拠となるべき同時代以前の中国伝承本は存在しない。文明年間は蓮如が本願寺を再興した時代でもあり、教派隆盛のためなら古典の書き換えも平気でやらかしたようだ。日中ともに隙あらば物書きがそういう行為に走った例は、論語はどのように作られたかを参照。

もっとも当時の本願寺は後継者などを巡り内輪もめが激しかった上に、比叡山など伝統教派からも打ち壊しなどの目に遭っており、ウソ八百の八百程度はいいたくなった気持ちはわからなくもない。

『正義』については北京大学蔵の版本を見ると「與脩也」とある。誤植でなく意図的に「」と記したが、意味は「脩」と同じだという。「」とは鳥のガンなどを贈り物にして、婚約者や師匠となるものに挨拶すること。

劉宝楠(1791-1855)が「修」に改めた理由は明確でないが、乾隆末年から咸豊初年までを生きた彼の時代は、古注など日本に伝承された版本を輸入して古典を研究するのが流行っており(いわゆる清朝考証学)、劉宝楠はうっかり本願寺坊主のデタラメを真に受けた可能性がある。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/jutuji/154.html



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