本日の改訂から

十七年,詔曰:「自古一代之興,必有博學鴻儒,備顧問著作之選。我朝定鼎以來,崇儒重道,培養人才。四海之廣,豈無奇才碩彥、學問淵通、文藻瑰麗、追蹤前哲者?凡有學行兼優、文詞卓越之人,不論已仕、未仕,在京三品以上及科、道官,在外督、撫、布、按,各舉所知,朕親試錄用。其內、外各官,果有真知灼見,在內開送吏部,在外開報督、撫,代為題薦。」

康煕帝
康煕十七年(1678)、康煕帝は詔書を下して命じた。

「昔より王朝が繁栄する時は、必ず博識な大学者がおり、君主の相談役や文章の助言役に当たっていた。我が清朝もまた帝国を創業して以来、儒学を尊び道教を重んじて、人材を育成しようと努めてきた。

だが天下は広く、どこかに一芸に秀でた者や、計りがたいもの知りが隠れていて、学問に深く通じ、素晴らしい文章を書き、いにしえの哲人に近づこうとしているか、知れたものではない。朕はそうした在野の賢者を求めておる。

ゆえに学問と人格が伴い、文章に卓越した者をもし見知っているならば、すでに出仕しているかどうかを問わず推薦するよう、次の者どもに命ずる。帝都在勤の三品以上の官位を持つ科挙合格者と道教監督官、地方の総督・巡撫(準総督)・民政長官・監察長官。

推薦された者は朕自ら試験し、優秀な者は取り立てる。また帝都と地方の役人で、まことに優れた見識を持つ者がいれば、帝都の者は吏部(人事院)に、地方の者は総督・巡撫に報告し、報告を受けた長官は、報告者の代わりに推薦状を記し、朕に届けよ。」(『清史稿』選挙志・制科薦擢)

「隠れた賢者」とは言い換えると、王朝にとってテロリスト予備軍に他ならない。清朝は少数の満洲人が膨大な漢人を治めるという事情から、こうやって下手に出て不満の回収に努めた。これは清朝のみならず歴代皇帝にとって、生死に関わる大問題だったからでもある。

中華帝国は煎じ詰めるとどれも同じで、支配層の強欲を下へ下へと押し付ける収奪機構に他ならないから、王朝は常に反乱の危険にさらされる。これは共和政になった今も変わらない。しかも中国のひねくれインテリは日本人のように、大人しく配所の月を眺めたりしない。

世をはかなんで身投げもしない。その少なからぬ者がテロに走り、反乱を煽った。叛乱軍の親玉は、ひねくれ知識人自身(ex.李元昊)でなければ筋肉ダルマだが、その場合も必ず参謀役にひねくれ知識人がいて悪知恵を授け(ex.張良)、どうかすると王朝は滅び帝室は皆殺しに遭う。

『鹿州公案』という、清の雍正帝期の記録がある。海沿いの寒村地帯に赴任した知事の日誌だが、王朝盛時のこんな田舎にもちゃんと山賊と海賊が揃っていて、必ずひねくれ知識人が参謀にいた。こういう連中も機会が無いだけで、時運に乗ればもちろん王朝を乗っ取る気でいた。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/402.html



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コメント

  1. […] なお康煕帝の政治ショーで、清帝国公認の無欲な大学者に祭り上げられた焦袁熹は、皇帝のショーにウマを合わせて、論語の本章にこと寄せてこんな事を書いている。 […]

  2. […] 李顒は父親が明軍の武将として戦死し、王朝の滅亡を目にして引き籠もり、清になってから地方の総督に目を掛けられ、学校の教師に招かれた。当時「権力泥棒の野蛮人」と言われるのが嫌でしょうがなかった康煕帝が、「中華文明の保護者」と言われたい一心で呼び出した。 […]

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