如予何(われにしくはなんぞ)
伝統的には「如何」”どうしよう”の間に目的語の「予」”わたし”が入った形と説明され、「われをいかん」と読み、”私をどうするのか”と解する。
しかし春秋時代は一字一義が原則で熟語はない。「如何」やおなじく「いかん」と読む「何如」が見られるのは戦国の竹簡から。また間に目的語を挟む形は、「如〇何」は戦国の竹簡から見られるが、「何〇如」は先秦両漢の文献にも見られない。
論語の本章の場合は、文字史的に後世の偽作を疑う必要がないので、一字一義と解し、「われにしくはなんぞ」と読み、”(徳を備えた)私に(徳の無いお前が)及ぶとはどういうわけだ”と解するのが妥当。

論語詳解169述而篇第七(22)天、徳をわれに’
論語述而篇(22)要約:孔子先生の所に隣国の将軍が暴れ込んできて、先生が言い返したお話。なぜ暴れ込んだのか、儒者にはさっぱり分からないので、将軍を極悪人に仕立ててしまいました。もちろんウソでむしろ良心的な人でした。論語:原文・書き下し原文(...
子以四教(しはよつのおしへをもちふ)
伝統的には「しはよつをもっておしふ」と訓読する。「以四」を「教」の副詞として解するわけで、漢語の修飾語→被修飾語の原則から見て誤りではない。ただ、漢語はまたSVO型の言語である事から、「以」を述語動詞、「四教」を目的語として解するのが素直ではある。

論語詳解171述而篇第七(24)子は四つの教えを*
論語述而篇(24)要約:後世の創作。孔子先生についてのごく短い回想。例によって「はあそうですか」と読み飛ばしても構わないお話。それにしても、どうせでっち上げるなら、もう少し面白い回想を作れなかったんでしょうかね。論語:原文・書き下し原文(唐...
つまりすでに伝わっていた孔子の言葉に、董仲舒が自分の願望をくっつけて武帝の耳に入るようにしたわけだが、「気紛れでしょっちゅう家臣を殺したりするのは、いい加減にやめてください」という切実な願いがこもっている。

論語詳解172述而篇第七(25)聖人は吾得て之を*
論語述而篇(25)要約:一部は後世の創作。春秋時代の漢文で言う聖人は、神に近い聖者ではありません。孔子先生は後世聖人と言われましたが、それがキリスト教のような意味になったのは、儒者の飯のタネにするため、カナブツにしたからです。論語:原文・書...

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